専門知識の更新をする本屋の時間

 久々に高校化学を教えていた時、有機化学の項目でアセチルサリチル酸が出てきた。アスピリンのこと。説明として「解熱鎮痛薬」と書いてある。その効果がメインだったのはもう20年も前の話だ。今の医療現場でアスピリンといえば「心臓の薬」だ。

 教育現場で情報が刷新されていないようで、その影響で若者が学ぶ情報がとてつもなく古いということは、ままある。

 

 久々に都会の大型書店に来た。知識と情報を仕入れるためだった。駅ビルのフロア1層全てが本屋というような、専門書も置いてある本屋だ。プロが知識として利用できる本は街中の本屋には置いていない。そんな専門書はなかなか売れないからだ。そこで大型ターミナル駅へ行く機会があれば、これまでも大型書店に行くチャンスを積極的に狙ってきた。本日用意できた時間は新幹線出発までの1時間だ。

 

 薬のことが書かれている本は大きく分けて医学系と薬学系がある。薬学系は全般を網羅しようとする傾向があり、医学系は病態に対して使う薬を特化しようとする傾向がある。ネット検索で信頼の高い情報を掴めるプロが敢えて本を活用する目的は主に、

 ・体系的なまとめの内容に対して自分の知識がズレていないか、遅れていないか

 ・すぐにでも出会うかもしれない現場トラブルなどに対応できる情報がまとまっているか

なのではないだろうか。自分の場合はそれに加えて

 ・笑いを交えながら知識を吸収できるか

も視野に入れている。そういった本はレアだが、見つけた時は感動する。そして笑いながら賢くなれる。そういった意味で、全般に気を遣って即戦力的な知識がなかなか抽出できない薬学系よりは、目の前の命に向き合いながら「とりあえずこれやっときゃ助かる」系の話が豊富な医学系を自分は好む。薬学系は命よりも学問とか法律とか厚生労働省とか権威とか批判とかに向き合ってる感じだ。

 

 そんなことを考えながら、まずは薬学系の本棚の前に立つ。半年くらい前にはたくさん並んでいたアンサングシンデレラが見当たらない。薬学系の棚は狭い。一通り見回すが、やはり総論ばかりでタイトルではピンとこなかった。そこで次に医学系の本棚へ向かった。

 

 入口に腎臓系の本が並んでいた。腎機能の低下した患者に対する薬の用量には気を遣う。本当は患者の検査値を毎回確認したい。昔に比べれば患者は検査値データの書かれた書類を見せてくれるようになった。これまでの薬剤師達の努力のおかげだ。だが全ての人が見せてくれるわけではない。いいからさっさと薬を渡せという態度になる患者もまだいる。そうなると薬剤師は薬の適正量を鑑査できないので、薬の過量投与のリスクが高まる。だがそんな患者の圧力と「医者の言うことだから間違いない」圧力に抵抗しづらい現場はまだまだある。もう20年は続く問題かもしれない。そんなことを考えながらさっと本棚を見回す。幸い腎臓系の症例では、過去に買った研修医向けの本がまだ役に立っていた。腎機能に応じて薬の用量を調節するための一覧表はネット検索の方が新しいデータを叩き出してくれた。より深く学ぶなら使えそうな本はあったが、自分の中ではそれほど優先順位は高くないようだった。次に視点を循環器系に移した。

 

 循環器系は15年くらい前に掘り下げて学んだ時の本がまだ並んでいた。やっぱり使える本だったんだなと思った。本を少し覗いてみると、体系的に新しい事柄はそれほど増えていないことは理解できた。実際に新薬がそれほど出ていない。一方で薬以外の治療法はどんどん進化しているような雰囲気を感じた。話題としては面白いが、薬屋が実戦で活用するものではなさそうだ。だが読んでいて面白いのでどんどん時間が過ぎていく。

 

 インターネットが発達して、次々と新しいエビデンスが提示され、標準治療がガラリと変わっていくのが2000年〜2010年の間にたくさん起こった。不整脈治療、リウマチ治療、気管支喘息治療、癌治療などは、この時期に治療法がガラリと変わっている。なので、この辺で学んでいる人とそうでない人とで知識の格差がある。

 

 ふと時計を見た。新幹線の出発まであと15分だった。あっという間だ。本を吟味するには時間がかかる。名残惜しい気持ちを振り切って、華やかな男女の流れるショッピングモールへ足を向けて行った。