書きたいし、書くより楽しみたいし、という話

 夏目漱石の「思い出すことなど」という小品小説の中のフレーズに「一日起きてから寝るまでのできごとや移り変わりを漏れなく書きたいが、一日のできごとを書くのにはやはり一日かかるので(書けない)」といったような内容のものがあって、そのフレーズをいつも思い出しては共感する。楽しい時はそのことを漏れなく書きたいのだが、書くのに時間がかかるし、書いてる時間があったら今を楽しみたいと思う。だからジレンマを感じる。

 

 写真をよく撮っていた時、いい写真を撮るのに一生懸命でその場の雰囲気を堪能できていないことに、ある時気づいた。そこで写真をいちいち撮るのをやめてみた。するとこれまでの2倍楽しめているように感じた。やはり写真撮影に魂を持ってかれていたのかもしれない。さらには撮影する時はイベント1つあたり1000〜3000枚程度撮るが、その写真を見返したり吟味したり加工したりという作業も、徐々に面倒になっていた。せっかく撮った写真を見返さないのだ。やはり記録を残すことより今を楽しむ方が向いているのかもしれない。

 

 それなら今を楽しもう。と思って記録を二の次にしていると、楽しく過ごした!という感情だけが残り、具体的にどう楽しく過ごしたのかが頭の中からすっぽり抜け落ちている。当然、記録を見返しても何もないわけで、それは仕方のないことなのだが、そんな時に妻とノリで撮ったプリクラ写真がポロっと目に留まると、その記録に圧縮された楽しい記憶が解凍されて2人の間に広がるし、若い二人の姿を見て喜んだりしてしまう。それは楽しい気分になるので、やはり記録を少しは残したいなあと思う。

 

 せっかく文章を残すなら書き残しのないように気持ちを全て文にしたいし、でもそれでは時間がなくて続かないので毎日軽い文章でいいから習慣づけるためにとにかく書こう、完璧は目指さないで、と心がけたり、でも中途半端な文を残す意味はあるのかと思ったり、いろいろ考えているうちに日付を超えてしまった。

 

 今日はスピーカーで感動したことを書こうと思って、前置きに夏目漱石の小説の話を展開してたら、どうも前置きだけで終わってしまいたくなってきた。この文章もまた、シューティングゲームをする時間を犠牲にして書いている。シューティングゲームしたい。でも書きたい。時間は有限だと痛感する。やっぱり前置きでおしまいにして遊ぶことにした。

 

 だいたい書くネタを思いつくのは仕事中なのですぐに書き始めるわけにはいかず、仕事が終わってまとまった時間が取れれば書くなんかよりも楽しいことをしようと思ってしまうのだった。この「書くよりも楽しいこと」の中には、ただぐうたらお菓子を食べたりネットサーフィンをしたりといったことも当然含まれる。それが始末に負えないと思うし笑えるとも思う。