旅立つ人より見送る人の方がさみしいのかもしれない

 朝、「旗登板だから近くの交差点まで行ってくる」と言って玄関に立つ妻。私も玄関に来て見送ることにした。「じゃね。行ってくる」旗を持って出ていく妻は、30分もしたら帰ってくる予定だ。ところが、「いってらっしゃい」と声をかけた私は、その声に特に反応もなく面倒そうな顔を少し浮かべて出ていった妻の、後姿が扉の閉まると共に見えなくなっていく風景に、なんだかさみしさを覚えた。

 

 すぐに娘の出発する時間がきた。そろそろ学校だよ、と声をかける。「えー! ママが出てから20秒しかたってないじゃん! もう出発ー?」不満を言いながらランドセルを背負う娘。私はこの日のお昼に仕事先へ戻る予定なので、娘とはここでお別れになる。それを考えてさみしさがこみあげてきた。一方、そんなことはすっかり忘れている娘は学校に行くことに神経が向かっていて、何の後腐れもなく行ってきますと言って外へ出ていった。

 

 見送りって、さみしくなるものですね。

 

 そして、私が出発する時間がきた。東京駅で、おみやげを買った。2か所の仕事場の分と、妻に持って帰ってもらう家族用の分。「ありがとう」「じゃあ、行くね」「わかった。着いたら、連絡してね」新幹線の前で、別れの言葉を交わした。「いつもは娘と一緒に見送ってるから、さみしいと泣く娘をなだめてばっかりだけど、今日は私だけの見送りだから、私が泣いちゃう」と妻が言った。肩を引き寄せ、抱きしめる。そんな私は、さみしさよりも出発の気分に包まれていた。さみしくないわけではないが、この後に仕事も待っていた。「ま、稼いでくるわ」。声をかけ、新幹線に乗り込む。二人とも大人だから、笑顔で手を振りながら、新幹線は出発していった。見えない所で妻は泣いていたそうだ。